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地すべりで埋没したが76年後に発見! 明治の鉄道トンネル内で プロジェクションマッピング もうすべらせない!!奈良県境・亀の瀬
[目次]
■大阪と奈良の県境に誕生した、エンタメ要素が強い災害遺構
大阪と奈良を結ぶJRは「大和路線」と呼ばれる幹線だが、府県境は地すべり地帯で、鉄道建設に苦難の歴史があったことは、あまり知られていない。
地すべり発生で1932(昭和7)年に埋没し所在不明になっていた1892(明治25)年の鉄道トンネルが、国の災害対策工事の途中に偶然発見され、保存されて災害の記録を後世に伝えているのは貴重だ。
トンネル内では今年からプロジェクションマッピングを上映。エンターテインメント性のある災害遺構見学が、人気を呼んでいる。
場所は、大阪府柏原市の亀の瀬地区。生駒山地と金剛山地の間の峡谷で、大和川が東西に流れ、JR大和路線と国道25号が並走している交通の要衝で、亀の瀬地区は川の右岸(北側)にある。
■大和路線が誕生する前にあった、幻の亀の瀬トンネル
明治時代、民間の大阪鉄道が湊町(現JR難波)―奈良間の開業を目指し、亀の瀬トンネルを掘ったが、地すべりで亀裂が生じトンネルの安全性に問題が出たため、稲葉山仮駅―亀瀬仮駅間1・3㌔は、徒歩か人力車を使う形で開業。トンネルの一部ルート変更と改修を行って明治25年2月2日、予定より2年遅れで全線開通させた。
1907(明治40)年に国有化され、関西本線となった後、輸送力増強で複線化することになり、既設のトンネルを一部利用した下りトンネルと、新規の上りトンネルが掘られ、1924(大正13)年に完成する。
しかし複線化から7年後の1931(昭和6)年11月、トンネル内で亀裂と隆起が見つかる。大規模な地すべりの始まりだった。翌年1月22日から下り線、2月1日から上り線を止めた後の2月3日から大崩落が発生、再び徒歩区間が設けられた。
当時の時刻表によると、「亀ノ瀬東口」「亀ノ瀬西口」という駅名の間に「徒歩連絡」の文字があり、列車はそれぞれで折り返し運転。両駅間の接続時間は30分。大阪から奈良に行くには西口で降り、東口まで1・3㌔歩かねばならなくなった。
4月にはトンネルが完全に崩壊して埋没。再建を断念し、線路のルートを大和川左岸に変更して対岸の山にトンネルを掘り、大和川に橋を二つ架けて12月31日に新ルートが完成する。これが現在の大和路線のルートである。
異例の徒歩区間は約1年で終了したが、地すべりの見物客が多い日で2万人押し寄せて臨時の茶店がにぎわった、との記録が残っている。
この時は地面が30㍍もすべって崩落したため、トンネルの坑口すらどこに埋まったのか分からなくなっていたが、76年の時を経た2008(平成20)年11月13日、地すべり災害対策事業を進めていた近畿地方整備局大和川工事事務所が、計画していた最後の7号排水トンネルを掘っていた折、掘削機が空洞を掘り当てる。
掘削機の作業員は穴が開いたその時「何かに当たりました」と叫んだという。空洞は、埋没した下り線トンネルで、しかもレンガ作りの明治25年完成の部分だった。レールも残っていた。
奥は崩落した岩石でふさがっており、39㍍の区間のみ、崩れず原形をとどめて発見されたのだ。国は調査で強度に問題なしと判断。
翌年、「貴重な災害遺構」「地域の歴史的財産」として保存を決める。排水トンネルの計画ルートが少しでもずれていたら、発見されていなかった。
■万葉の時代から続く歴史ストーリ―をプロジェクションマッピングで紹介!
奈良の都人は、亀の瀬の北側の山々を総称して「龍田山」と呼び、大和と外の世界を区切る山と意識していたこともあり、このトンネル遺構は2021(令和3)年、万葉の時代からの歴史的ストーリーを含めて、日本遺産「もうすべらせない!!~龍田古道の心臓部『亀の瀬』を越えてゆけ~」の構成文化財に、文化庁から認定される。地元柏原市は、観光スポットとして育てるため今年1月、ブロジェクションマッピングを導入した。
観覧は、土日祝日の事前予約制(柏原市のホームページから)。駐車場あり。
亀の瀬地すべり歴史資料室で受付を済ませ、鉄道トンネル発見のきっかけになった排水トンネルの坑口前に集合する。キャッチフレーズ「もうすべらせない!!」ののぼりがユニークだ。
坑口から少し歩いて右に曲がると、明治のトンネル遺構が姿を見せる。アーチ形の壁面や高さ5㍍の天井のレンガはところどころ黒くすすけており、130年前に蒸気機関車が通り抜けていたことを実感する。
プロジェクションマッピングは8分間。48台のプロジェクターで、蒸気機関車、地元の伝説の龍、龍田古道の四季、天皇の行幸、万葉集などをモチーフに光と音と映像を展開する。地すべりのデータも映し出される。撮影可。予約制のガイド付きツアーもある。
■地すべりが発生するメカニズム
地すべりのメカニズムを少し説明しておこう。
固い地層の上に別の地層が乗った場合、二つの地層の間に地下水がたまり、粘土層ができることがある。この水を含んだ層より上部が、固い地層の上をすべり台のようにしてずり落ちるのが地すべりだ。
亀の瀬の地すべり地は、約1㌔四方の斜面。花崗岩などの固い地層の上に、数百万年前に噴火した火山溶岩による重い火山岩が傾斜して乗っており、その間に地下水層と粘土層があって、すべり面(最大の深さ約70㍍)が出来ている。
土中から見つかった木片から4万年前にも滑ったことが判明。近世以前の記録は見つかっていないが、明治36年、昭和6年~7年、昭和42年に大規模地すべりが発生。昭和42年には大和川の川幅が1㍍狭くなり、対岸の国道25号が1・3㍍隆起した。
▲プロジェクションマッピングで地すべりの歴史やデータを紹介
すべり面は大和川の下を超えて対岸に達しているため、大和川の河床が隆起して川がせきとめられ、洪水を起こす可能性もある。近畿地方整備局は1962(昭和37)年から災害対策事業を開始。30階の高さに相当する96㍍の杭を岩盤まで170本打ったり、すべる原因となる地下水の水位を下げるための排水トンネルを7本掘るなどし、現在も地中の動きを24時間監視している。
■「亀岩が動くとき洪水が起きる」の伝説
地学の話から一転して伝説の話を少し。亀の瀬付近の峡谷は、日本書紀や万葉集で「畏(かしこ)の坂」と呼ばれていた。「畏」には「神を恐れる」という意味があることから、天災である地すべりのことを指していたという説がある。
そして、現場近くの大和川の河原に、地名の由来となった「亀岩(亀石)」という巨岩があり、歩いて見に行くことができる。
葛城山系から金剛山地をめぐる修験道「葛城修験」のゴールでもあるが、古来「亀岩が動くと洪水になる」という言い伝えがあるという。昭和6年~7年の地すべりの時、元は川のほぼ中央にあったのに、右岸寄りに北へ少し移動したらしい。科学的根拠のある伝説かもしれない。
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