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日本で唯一残る鉄炮鍛冶屋敷が堺にある!失われた火縄銃の製造や歴史を体感しよう
まいど!ベティです。
さて、みんなは大阪府の“堺”という街が、かつて鉄砲の一大産地だったことはご存知?
さらに堺には、日本で唯一残る江戸時代の鉄炮鍛冶屋敷があって、新たな観光スポットとして誕生したことを知っていたかな?
というわけで、今日はものすごく貴重な鉄炮鍛冶屋敷(町屋歴史館井上関右衛門家住宅)についてご紹介します。
歴史好き、とりわけ戦国時代好きの人は必見やで!
※この記事では、鉄炮の「炮」は、鉄炮鍛冶屋敷に伝わる江戸時代の古文書の大部分で使用されている、火縄銃を指す言葉として火扁の「炮」が採用しています。
[目次]
日本でただ1つの、江戸時代から残る鉄砲鍛冶屋敷
鉄炮鍛冶屋敷の最寄り駅は南海本線「七道駅」。
各駅停車しか停まらないマイナー駅やけど、駅前にはイオンモール堺鉄炮町が構えていて、週末になると多くの人で賑わう場所だよ。
このイオンモールの店舗名にもあるように、七道駅東側の町名は“鉄炮町”。もう、この時点で鉄砲にまつわる土地の歴史を感じるね!
鉄炮鍛冶屋敷があるのはイオンモールとは駅の反対側。
「鉄砲町と違うんかーい!」と突っ込みながらも、テクテクと住宅街を抜けていきます。
5分くらい歩くと、風情を感じる日本家屋に到着。ここは大坂の陣で焼失した後に再建された堺市内で最も古い町屋で、井上関右衛門の名を代々襲名した鉄炮鍛冶の屋敷。
そして、今では日本でたった1つしか残っていない鉄炮鍛冶屋敷なんやって!
江戸時代後期、堺の鉄炮鍛冶は全国の8割以上にあたる227の大名家と取引があったんよ。その中でも井上家は61の大名へ火縄銃を納めていた、堺を代表する鉄炮鍛冶やったらしい!
さて、玄関から入ると左に受付、右には広々とした“仕上場”というエリアがあるよ。
スタッフさんによると「鉄炮鍛冶屋敷には、通常の町屋と異なる3つの独自空間があります」とのこと。
- 部品を組み立てて鉄炮を完成させる「仕上場」
- 鉄炮の取り引きなどの商談をする「みせの間」
- 鉄を鍛えて銃身を造る「鍛冶場」
つまり、かつてはここで職人さんが鉄炮を組み立てていたんやねー。
仕上場には、堺と鉄砲の歴史映像が流れるプロローグシアターや、鉄炮鍛冶屋敷オリジナルグッズを販売するミュージアムショップがあるよ。
ちなみに、この仕上場までは無料で入館可能。
仕上場の奥には、分解した火縄銃の展示を発見!
堺の火縄銃は、銃身をつくる鉄炮鍛冶をリーダーとして、各部品は屋敷の周辺にいる職人との分業で製造されていたんやって。
何でも、大坂の陣で焼け野原となった堺は、江戸時代に「元和の町割り」と呼ばれる新たなまちづくりが行われた。その際、火を扱う鍛冶屋は、まちの中心部から少し離れた場所に集めたとのこと。当時の人々にとって火災はおそろしい災難やったからね。
貴重な資料からひも解く、江戸時代の鉄炮ビジネス!
さて、仕上場を過ぎると“みせの間”へ。
みせの間では、江戸時代の鉄炮ビジネスの全貌がわかる資料がたくさん展示されているよ。
井上家とともに鉄砲を製造していた台師や金具師、鋳形師とのやりとりが伺える「鉄炮鍛冶下職通」や、井上家に依頼された鉄炮の注文数、値段、納品期限などを記した「大福帳」など、貴重な資料がずらりと展示されているよ。
帳場を再現した展示を発見!
机を囲むコの字形の格子、そろばん、硯や筆が、商家の雰囲気を出してるよねー。
ここに座って番頭さん気分を味わうのもよし!
帳場の奥に見えているのは、火縄銃のレプリカ。
火縄銃を持てるなんて、なかなかできない体験!
ここぞとばかりに持ってみたんやけど、思っていた以上に重い💦
鉄製の棒なんやから当然なんやけど、こんな重たいものを持って戦場に行ってたんやとリアルに感じ取れる。
馬上筒という今のピストルに近い火縄銃も展示されてた!
その名の通り、馬に乗りながら扱える火縄銃で、デザインもカッコイイね(馬上筒は展示のみで、触れないよ!)
江戸時代の鍛冶場を再現。鉄砲鍛冶になりきろう!
仕上場とみせ間を見た後は「鍛冶場」へ。
鍛冶場は作業場兼住居となっている屋敷を抜けた先にあるよ。
この鍛冶場は井上家に伝わる資料を参考にして、江戸時代の鍛冶場を再現したんやって!
モニターのCG動画では、どうやって銃身に鉄を巻いたのかなどを紹介。当時の鉄炮鍛冶の技術を知ることができるよ。
それから鍛冶場には、鍛冶コンテンツ「あなたも鉄炮鍛冶!」が用意されている。
鉄炮鍛冶の親方の指示に従い、送風装置「フイゴ」で火力を調整し、ハンマーで鉄を打ち付ける。
リズムに合わせてハンマーを叩くところは、まるで「太鼓の達人」みたい(笑)
子どもも大人も楽しめること間違いなしやね!
海外の人も楽しめる、江戸時代の日本家屋
江戸時代から続く鉄炮鍛冶屋敷。もちろん建物本体も貴重で、堺市の有形文化財に指定されている。そんなに大きな施設じゃないけど、なかなかに見どころたっぷりやわ!
履物のまま移動できる土間。
ノスタルジックな雰囲気がするけど、ガレージやキッチン、客間とフレキシブルな利用ができる実は合理的な空間だよね。
屋敷の主だった井上関右衛門は、鍛冶職人としてだけではなく文化人だったことが伺える。
和室や庭も美しく手入れされていて、よく現代まで残っていたなー、と感じるね。
海外から訪れた人は、屋敷内に各所に置いてあるQRコードを読み込もう!
歴史的な視点で考える、鉄炮鍛冶屋敷を訪れるべき理由
最後に鉄炮鍛冶屋敷の価値について、スタッフさんが教えてくれた2つのポイントをみんなにも紹介するね。
堺が鉄炮の一大産地だったのは、優秀な鍛冶技術があったから!
歴史が好きな人にとって、堺は鉄砲の生産地だったことは知られた話。
足利義昭が将軍になった際、織田信長は副将軍などの打診を断って「堺を直轄地にしたい」と申し出たのも有名だよね。
でも、どうして堺は鉄炮の一大生産地だったんやと思う?
答えは、5世紀に仁徳天皇陵古墳を築造して以来、堺には鍬(くわ)や鋤(すき)などの鉄製道具をつくる職人が定住していたから。そのため、日本に鉄砲が伝来されたときも、継承されてきた鍛冶技術を生かして、多くの鉄炮(火縄銃)を生産したんやって。
今、堺は刃物や自転車の生産地としても有名やけど、その歴史の中に鉄炮も存在していたんやね。
途絶えていた火縄銃の製造技術や、生産に関する歴史が判明した!
もう1つは、失われた鉄炮鍛冶の技術が分かってきたということ。
というのも、実は火縄銃の製造方法って、現代には伝わっていないやって。
戦国時代に伝来した火縄銃は、それまでの戦を一変させた。
大量の火縄銃を用意した織田信長が、戦国最強と言われた武田騎馬隊を倒した長篠の戦は、海外の歴史好きな人も知るほど有名な話(勝因は火縄銃ではなく馬房柵といった戦術とも言われるなど諸説あり)。そして、この火力の高い火縄銃は各大名の勢力拡大に貢献。すなわち天下統一への速度を上げた。
しかし、幕末になると西洋の最新銃が輸入され、火縄銃は性能の劣った過去の武器となっていく。そして、火縄銃を扱う職人はいなくなり、製造技術も途絶えてしまった…。
ところが近年、井上家から江戸時代から300年間にわたる2万点を超える古文書や、鉄炮生産に関する資料が見つかったの!!日本の鉄砲生産に関する資料としては質・量ともに全国有数!!
そして、堺市と関西大学が共同研究を開始した結果、公に公開されるまでに至ったんよ。
そういう視点で考えると、鉄炮鍛冶屋敷は単なる昔の日本家屋ではなく、失われた技術を紹介してくれる、歴史好きなら一度は訪れるべき場所とちがうかなー。
また、鉄炮鍛冶屋敷からは、町屋歴史館 山口家住宅や清学院も徒歩圏内。
さあ堺で歴史散策を楽しもう!
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