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大阪は歴史的には「大坂」!江戸から明治までは両方が混在。元々は小坂で坂の多い上町台地のローカル地名!

「OSAKA Bob Maido。」が世界に情報発信している「大阪」。でもかつては、漢字で書くと「大坂」だったのをご存知でしょうか。
大阪城も、築城された当時は「大坂城」で、「OSAKA」は歴史的に「大坂」だった時期があるのです。
歴史の教科書でも、中学校用では時代を通して「大阪」を使う一方、高校用では江戸時代までは「大坂」と表記している出版社があるようです。

地名は、かけがえのない文化遺産です。
その価値を大切にしながら、古代からの名称の移り替わりや、いつ「大坂」から大阪へとなぜ変わったのかについて探ってみます。
「OSAKA」の歴史を振り返る機会になれば幸いです。

[目次]

■古代は「NANIWA」

縄文時代は「縄文海進」と呼ばれて海水面が高く、大阪は、北へ細く突き出した上町台地だけが陸地で、東側の今の「河内平野」は、淀川が北から、大和川が南から流れ込む海でした。
弥生時代にかけて、海水面が下がっていき、川が上流から運んでくる土がたまって潟のような陸地が徐々に広がっていきます。
まさに「河内」という名の由来です。

縄文時代の大阪。上町台地の東西は海だった

飛鳥時代から奈良時代にかけては、港が発達し、上町台地には一時期、古代律令制の宮殿「難波宮(なにわのみや)」が置かれました。
大阪城公園の南側にある難波宮の跡
▲大阪城公園の南側にある難波宮跡

大阪は「難波(なにわ)」と呼ばれていたのです。「浪花」「浪速(なみはや)」とも表記されました。
今の大阪府域の旧国名は、摂津国、河内国、和泉国でした。
しかしその後長く、「OSAKA」は歴史の表舞台からは遠ざかります。

■「大坂」の初出は室町時代!蓮如上人の手紙だった

「大坂」が、地名として文献に登場するのは、室町時代の15世紀末です。
大阪の中世から近世への歴史、都市としての発展の歴史は、「本願寺(浄土真宗)」と「大阪城」という、不思議な縦軸を抜きには語れません。
人物でいえば、蓮如上人(れんにょしょうにん)(1415~1499)と豊臣秀吉(1573~1598)です。
この2人が、地名「OSAKA」の定着のきっかけを作った立役者でした。

大阪城公園内にある豊国神社には豊臣秀吉の像があります
▲大阪の歴史に深くかかわった豊臣秀吉。写真は大阪城公園内にある豊国神社

宗祖親鸞(しんらん)から数えて8世にあたる浄土真宗の中興の祖・蓮如上人は15世紀末、京都山科を拠点にしていましたが、栄えていた商業都市・堺と、京都との間にある広い平野部に、布教の新拠点を作ることを考えていました。
その候補地として、信徒への手紙「御文章(ごぶんしょう)」に、「大坂」という地名を記したのです。
原文は次の通りです。

「そもそも当国摂州東成郡生玉(いくたま)之庄内、大坂という在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、去ぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながら、この在所を見初めしより、既にかたのことく一宇の坊社を建立せしめ、当年は、はや既に三年の星霜をへたりき」

明応5(1496)年秋に「大坂」という地に一つ御坊を建ててもう3年がたった、という内容で、「大坂」が初めて歴史に登場した文献とされています。
また別の文献には、山科から堺に向かう途中で大坂を通過して気に入った、と記されています。

■元々は「小坂(おさか)」!坂が多かったから?

では、蓮如の手紙で「大坂」があったとされる「生玉之庄」とは、どんな所だったのでしょうか。
古代から上町台地に鎮座し(大阪城築城に伴って南西に移築されたので、当時は現在地よりも北にあった)、今も有名な「生國魂(いくくにたま)神社」のかいわいだったことは間違いないでしょう。

いくたまさんと親しまれている生國魂神社
▲「いくたまさん」の名で親しまれている生國魂神社

さらに詳しく調べるため、明治時代に国が編纂した百科事典「古事類苑」の「地部(地理編)」を、国際日本文化研究センターのデータベースで見てみました。
国別の「摂津国」の章には、「大坂」という地名について、既に紹介した蓮如上人の「御文章」はじめ、興味深いいくつかの文献が収録されていたので、現代語訳してみました。

・大坂は、旧東成郡内の一地名。今の天神橋筋東裏通を北より南に至ると山岸の地形あり。東が高く西が低く、坂が多いため,大坂と呼ばれた。淀川より北は天満。【和漢三才図会】
・大坂は、谷町街路をもって、西成郡との境界になっていた。玉造町の30町名と上町の26町名でできていた。【摂津誌】
・大坂は、摂津国一の港があり広大な地。しかし、元のは古書和歌で見つけることはできない。平安時代の承徳年間(1097~1099)の古地図をみると、大江岸から南西の方向に「生玉之庄小坂村」という地名があり、後世繁栄して家が立ち並んだ。時の人は、「小坂」から転じて「大坂」と呼ぶようになった。【幽遠随筆】
・摂津国の「生玉之庄」にある大坂という場所は、昔からの何かの縁があったのだろうか、明応5(1496)年の秋から、良い場所だなと思い、御坊を建ててもう3年がたった。【蓮如上人の御文章】
・大坂は、元は「小坂」、あるいは「尾坂」と呼ばれていたが、明応年間(1492~1501)のころから、「大坂」と表記するようになったと考える。しかし時期が後の文献でも、おおかたは「大坂」だが、「小坂」「尾坂」もまじっていて、「小坂」の方が多いので、これが古名と考えてよいだろう。「大坂」に変わった理由としては、明応5年に蓮如上人がこの地に本願寺を建立したので、祝い改めて「大坂」と呼ぶようになったのではないか。しかし、本願寺ができたことを世間の人がみんな知っていたわけではないので、しばらくは「小坂」という呼び方が混在したのではないか。天正年間(1573~1592)になると、ほぼ「大坂」と書かれるようになっている。「小坂」はとても古い地名だが、いつからあったかはよく分からない。【碩鼠漫筆】
・大坂は日本一の地。奈良や京都にも近く、京都の淀や鳥羽から大坂城まで、淀川を船にて直で行ける。生駒山など遠山の景色も見ることができ、西は海が広々として、日本の船だけでなく東南アジアからの船も出入りし、商いが栄えている。【信長公記=天正8(1580)年8月2日】

■好字化で「小坂」から「大坂」に

これら文献の内容には虚実がまじっており、100%正しいわけではないでしょうが、全体をまとめると、次のように推定できるのではないでしょうか。

  • 平安時代以来、「小坂(おさか)」というローカルな地名が、上町台地の「いくたまさん」周辺にあった。名前の由来は、台地の斜面で、坂が多かったから。
  • 15世紀末に、蓮如上人がこの地を気に入って御坊を建立したころ、「小」から「大」に「好字化」され、「大坂」と表記されるようになった。

現在も上町台地には多くの坂が残っています。天王寺七坂のひとつ口縄坂
坂が多かった大阪の名残を残す天王寺七坂の源聖寺坂
▲上町台地には口縄坂や源聖寺坂といった天王寺七坂をはじめ、多くの坂が今も残っています

ここで「好字化」について説明します。

「好字化」とは

「好字」とは、「よい文字」「好んで人名、地名などに用いられるめでたい文字」のことで、特に地名の場合、音はそのままで、当て字の漢字が「好字」に変わっていくことがあります。これを「好字化」といいます。
歴史的には、古代律令制時代の和銅6(713)年、天皇が地名について「好字二字化令」を出したことがあります。これは全国の地名を、中国の唐にならって「漢字2文字にしてください」「好字に変えて構いません」というお触れです。この時に、有名な地名では明日香が「飛鳥」になり、泉が「和泉」になり、木が「紀伊」になり、全国どこにでもある北の表記が「喜多」になったりしました。その文化が、脈々として日本に根付いているわけです。
「小」と「大」を比べると、「大」の方が好イメージであり、「小坂」から「大坂」に変化したと推定されます。
大阪キタの中心地・梅田も、元の漢字は、低湿地を埋め立てたことに由来する「埋田」でしたが、音は「うめだ」のまま、江戸初期に「梅田」に変わりました。これも好字化です。

■大坂御坊の跡地に大坂城、メジャー化進む!

大坂の地名の由来になった大坂御坊(石山本願寺)は、最初は1棟でしたが徐々に整備が進み、京都の山科本願寺が法華宗徒の襲撃を受けて焼亡した後の天文2(1533)年、本山が山科から移されると一大聖地となり、周辺も寺内町として発展していきます。
「大坂」が、地名として全国にメジャーデビューしたことが想像できます。

しかし石山本願寺は、堀や塀を設けて軍備も持ったため、天下統一を目指す織田信長との緊張が高まり、ついに信長と戦闘状態となって(石山合戦)、10年間の戦いの後、天正8(1580)年、敗北し焼失します。
その跡地に、豊臣秀吉が築城したのが大坂城なのです。
石山本願寺の跡地に建造されたのが大阪城
▲石山本願寺の跡地に建造されたのが大阪城

石山本願寺の場所は、信長が築城地として目を付けていましたが、信長亡き後、秀吉の領地となり、寺焼失の3年後に築城にとりかかって、慶長3(1598)年に完成します。
秀吉は、豊臣家居城として城下町を整備し、「大坂」の全国知名度はさらに高まります。
秀吉の時代を「鎌倉」や「室町」と並ぶように「大坂時代」と呼ぶべきだ、という歴史学者もいるくらいです。

大坂冬の陣・夏の陣で炎上落城した後も、徳川幕府は、城を再建して重要役職「大坂城代」を置き、西国大名を監視する拠点としたため、「大坂」は江戸時代、政治的にも軍事的にも重要な地名であり続けました。
現在、大阪城の内堀南にある六番櫓近くに、「石山本願寺推定地」の碑が立っており、本願寺と大坂城が同じ場所にあったことをしのぶことができます。
大坂御坊(石山本願寺)の跡地碑。後方は大阪城六番櫓
▲大坂御坊(石山本願寺)の跡地碑。後方は大阪城六番櫓

■「坂」は縁起が悪い? 異体字を使った「大阪」が幕末に出現

江戸時代は「大坂」が定着し、近松門左衛門の浄瑠璃にもしばしば登場します。
読み方は、「おさか」ではなく、「おおさか」「おおざか」と記録している文献もあります。
しかし江戸後期に変化が起こります。「坂」の異体字で、同じ意味を持つ「阪」を使って「大阪」とする表記が現れるのです。「大坂」と混在しました。

謎を解く文献があります。
文化5(1808)年の随筆「摂陽落穂集」に、「坂」はへんとつくりに分解すると、「土」と「反」になり、「土に返る」と読めることから、縁起がよくないとして、「阪」を使う人がいた、と書かれています。

この変化は、「小坂」が「大坂」になったのと同じで、「好字化」といえます。

■武士が反乱したら困る? 明治新政府は「大阪府」と命名!

「大坂」という地名が、本願寺と大坂城でメジャーになったこと、幕末になって「大阪」と書く人が出始めたこと、は分かりました。
では、いつから、「大阪」に定着したのでしょうか。
これには、行政の関与がありました。
明治維新に伴って慶応4(1868)年、新政府が「府県設置」を行った際、太政官布告の文書で「大阪府」と表記したのです。
府県設置から今も続く大阪府。写真は大阪府庁
▲府県設置から今も続く大阪府。写真は大阪府庁

新政府は、明治4(1972)年の「廃藩置県」を前に、まず「府」を名乗ってよいところ(京都、東京、大阪)を発表します。
その太政官布告に「大阪府知事」という文字がありました。

もちろん太政官布告には、「阪」を選んだ理由は書かれていません。
しかし出典不明ながら、「坂」をへんとつくりに分解した時、「土」の文字が「士」に見えることから、「士」と「反」で「武士が反乱する」の意にとれ、「縁起でもない」として「坂」が回避された、との説があります。

実際、西郷隆盛が反乱する西南戦争も後に起こりますが、明治新政府としては、旧武士が反乱する意味に取れるような「坂」は使いづらく、幕末から「大阪」という表記も混在していたことから、「阪」を選んだ、と考えるのは、信ぴょう性なしとは決めつけられません。
新政府にとっての「好字化」だった可能性は、あると思います。

■明治半ばに「大阪」が定着

「大阪府」が正式の地名になってからも、急に社会に定着したわけではなく、しばらくは「大坂」表記も併用され、官報ですら遅れて明治20年前後から「阪」の文字に変わったらしく、明治半ばごろになって、ようやく「大阪」が一般に定着したようです。
ちなみに、現代の辞典「広辞苑」の見出し語では「おおさか【大阪・大坂】」と、両方が併記され、「古称、難波。室町時代には小坂(おさか)・大坂といい、明治初期以降、大阪に統一」と載っています。

以上、私の推理も入りながら、「OSAKA」の地名表記をひもといてみました。
古代より、坂が多い上町台地の超ローカルな地名「おさか」が「小坂」と表記され、室町時代に好字化で「大坂」になり、本願寺本山と大坂城で全国的にメジャーになったところに、江戸後期のさらなる好字化で「大阪」にバージョンアップされ、明治政府が府名に正式採用して定着した、というのが真相だろうと思います。
秀吉と同じく、出世していった地名と言えるかもしれません。

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マップ上の表記はMap Tilerの仕様に準拠します。実際の地名とマップ上の表記が違う場合があります。