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大阪駅前ビルで神社めぐり。夜景も楽しめるパワースポットへ行ってみた!

梅田の都心にある大阪駅前第1ビルと第2ビルで、神社の参拝ができると知り、でかけてみた。ビルが神社の森で、エレベーターやエスカレーターが参道。鳥居と高層ビル街が一緒になった景観も魅力だ。先が見通しづらい社会状況だが、仕事の合間や帰りに、開運や商売の繁栄、家族の幸せを祈ってみては。

[目次]

■昭和の雰囲気が残る駅前第1ビルの屋上で見つけた「正一位 福永稲荷大明神」

駅前第1ビルの屋上にある福永稲荷大明神
駅前第1ビルは、地下の飲み屋街にコロナ前まで長年お世話になったが、ここ1年以上行っていない。屋上に神社があると聞いたことはあった。
1階エレベーターホールに行くと、ちゃんと案内表示がある。縦形プレートに「正一位 福永稲荷大明神」「開運 商売繁盛 家内安全 五穀豊穣」「エレベーターで最上階へ」「参拝時間10:00~16:30」。お稲荷さんということで狛狐のイラスト入りだ。
エレベーターホールの案内プレートと福永稲荷大明神の社殿
12階建ての屋上階までエレベーターで上がり、北の扉から屋外のデッキに出ると、夏の屋上ビアガーテン用の椅子などが壁沿いに積まれている。昭和の雰囲気。デッキの奥の北東隅に、赤い鳥居と生垣が目に入る。屋上の角にポツンという感じ。
拝殿に対面すると、結構リアルな狛狐の像があり、左のキツネは巻物をくわえている。手を清める手水舎もある。後ろに神殿のようにそびえるマルビルが目に入りながらの二礼二拍手一礼。

■すみっコぐらしの「焼けずの稲荷」。実は開運力バツグン!?

左側の狛狐と福永稲荷大明神社殿
由来を書いた石碑を読むと、このあたりは小さな丘で、野ギツネがすんでいた。南北朝時代に渡辺十郎という住人が稲荷の祠(ほこら)をまつり、一家の守護神としたのが始まり。江戸時代には狐塚と呼ばれ、明治に入って「お初天神」の一座となった。明治42年の「大阪北の大火」で一帯が焼失した際も、この祠だけが不思議にも焼け残り、「焼けずの稲荷」と呼ばれ畏敬された。昭和20年の空襲で罹災したが、戦後、当地の中谷栄五郎氏らが復興。曽根崎商店街通の守り神だったが、市街地改造事業に伴う昭和45年の1ビル開業時に、屋上に移転した。
今でこそビルの屋上で「すみっコぐらし」しているが、「焼けずの稲荷」という強いストーリーに開運力を感じた。

■夜でも参拝可能。駅前第2ビルの「徳兵衛大明神」

駅前第2ビルにある徳兵衛大明神
エレベーターでいったん地上に降り、今度は東隣の駅前第2ビルへ。今度はエスカレーターに乗って3階へ。こちらにもちゃんと案内表示がある。「⛩徳兵衛大明神」「毎月縁日:8日・18日・28日」「➡3階屋上・参拝順路」と。
駅前2ビル3階のエスカレータ―横にある徳兵衛大明神への案内表示
3階の屋外に出ると、建屋の周りのデッキは駐車場。契約者のみらしく、車は地上かららせん道路をぐるぐる回って上がってくる。車の通路の北に、徳兵衛大明神の社殿があった。
赤い提灯が対になって下がっており、おみくじが入った容れ物もある(さい銭100円が必要)。拝殿の後ろの梅田のビル街の風景は、福永稲荷大明神と似ている(隣なので)。
縁起を記した石碑の書き出しは「往昔 大阪曽根崎蜆川(しじみがわ)ほとりに 古く荒れたる祠(ほこら)あり」(注・蜆川はそれなりに有名で、堂島川から分岐し、現在の新地本通あたりを流れていた。蜆川にかかっていた桜橋の地名が今も残る)。徳兵衛さんという信心深い人が、修理しながら古い祠に住み、いつも修行をして合掌三昧をしていると多々の霊験があり、評判となった。いつしか徳兵衛大明神と呼ばれるようになった。いつの間にかなくなったが有志が集まって復興した、とのこと。
梅田で「徳兵衛」の名が付いているので、近松門左衛門「曽根崎心中」の主人公・お初徳兵衛のゆかりかもとイメージしていたが、関係のない別の徳兵衛さんだった。
昼と夜の徳兵衛大明神。後ろはマルビルとヒルトンホテル
徳兵衛大明神は、駐車場利用者がいることから、夜でも参拝可能。都心ならではのビル街の夜景と赤い鳥居が織りなす雰囲気も堪能できる。
ともかくも2神社は、いずれもいにしえよりの地縁を持ち、一度はすたれても人の熱意で復興し、ビルの上で生き続けていた。いつの世も変わらぬ「祈り」への思い入れを感じた。

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